第三章 ジェイムズ経験論の発展

第四節 続・宗教思想について
      ─科学的対象から哲学・形而上学的対象へ─

 本節におけるわれわれの任務はジェイムズの宗教的経験の実態なるものがなんであるかをあきらかにし、同時にその価値の客観性の根拠を解明することである。
 さてわれわれの記憶する限りでは「神的なものと考えられるいかなるもの」の存在の可能性が信ずる意志の作用の結果として、ジェイムズの確信として宣言せられていた。その時点では「神的なもの」はわれわれに不可知、不可測であるとしても存在するのだ、という個人の信念に支えられて主張されているにすぎなかった。正直なところ、これを客観的なものとする知的努力は徒労に帰さざるをえないだろう。それ故に、ジェイムズはかかる「神的なもの」との知的関わり合い、即ち宗教的経験における伝達の真理を「純粋に知的な過程で論証しようとする」
(1)試みは期待できない、と告白する。
 このディレンマから救っているのは、周知の如く彼のプラグマティズムの論理であった。ジェイムズは次の如くいう。「神は現実的な効果をうみだすが故に現実的である。」
(2)この現実的な効果とは前節にある如く、なんらかの形での感情への訴えを意味しているものといえよう。ジェイムズはこの現実的な効果を様々な個人体験の実例をあげて例証しようとするのである。(一)
 宗教的経験の客観性の判断をかかる経験的実例においてなそうとするのはジェイムズ独特の方法である。それは特定の、固定する、アプリオリな神学体系にとらわれずに、ただ事実をのみ集め、且つその諸事実を起点にして、個々の経験に関する各々の判断をも総合した中で、全体的にみて、宗教的経験の是認あるいは否定をしようとするだけだ。そこにはあきらかに「他の実在の中に効果を生み出すものはそれ自身ひとつの実在とよばれなければならない」
(3)とする彼の哲学が介入しているのである。
 このジェイムズの論理に対する批判に対しては、ジェイムズは、プラグマティスト独特の帰謬法的反論をする。「目にみえない、あるいは神秘的な世界を非実在的とよぶべき哲学的弁明」
(4)をわれわれはもっていないというのである。しかしながらこのことが主観的ないしは情緒的にわれわれの賛同をえるということになったとしても、われわれが宗教的経験の「積極的内容」を知るのでなければ、ジェイムズの宗教観はその根底において保証されはしないだろう。即ち「神的なもの」は実際各人にとって現実的たりうるのであろうか、いいかえれば「神的なもの」が普遍的に妥当しうる基盤が人間に与えられているのであろうか、これが宗教的経験の積極的内容を知る鍵となるのである。この問いかけは「神的なもの」の客観的認識が人間的能力において可能か、という設問と同一でなければならない。
 とはいえここにおいてジェイムズはまたもやひとつのディレンマにたたされる。「神的なもの」がわれわれの認識可能な領域をこえたものであっても、その存在がわれわれと内的な関係にあるとされる以上、われわれの精神は「神的なもの」の把握が出来なければならないのである。それではいかにしてそれは可能であるのか。この時ジェイムズは心理学者としての立場に戻ってしまっている。彼は人間の意識的生活の面を心理学的に解剖することで彼の宗教観を掘りさげようとする。まずジェイムズにとって実際に実在している世界は概念的に明確にされた世界ではなく、物理的事実と情緒的価値とが「区別できない結合状態において」
(5)あるところの複合的世界であると考えられている。その中で人間に意識される面はきわめてわずかな領域でしかない。そしてジェイムズに言わせれば人間の可感的意識的部分が占める割合は、広大な宇宙の中にあっては微々たるものであり、人間の内的状態にあっては意識されざる部分と比肩しえないほど小さい、のである。
 この意識されざる部分こそ「神的なもの」の存在を客観的に保証するとジェイムズは考える。今日では潜在的意識的自己は意識されざる部分を代表しており、心理学的実在物として公認されようとしている。又それが故に客観的な存在として規定されうる場合もあるとされるのである。
 ジェイムズはかかる考えを基調にして潜在意識的自己の中に「神的なもの」の存在と人間的存在を結合させる「媒介項the mediating term」
(6)があるとする。それは「神的なもの」の存在をその無限的性格においてとらえる姿勢ではなく、可能的に人間的存在と連続的なつながりをもつ点に力点をおいて、意識的自己にあらざる潜在意識的自己に「神的なもの」の存在の可能性を期待するといったジェイムズの定位Positionをあらわしている。
 宗教が人間的存在の経験的事実であるとされる以上、「神的なもの」の吟味は人間的存在の心理の問題として可能である。従ってこの心理的部分においては「神的なもの」とわれわれの関係の現実性は存在するといわれねばならない。「神的なもの」が無限的存在との関係においては理念的、概念的に結びつけられる論理的帰結がえられるように、意識的自己よりもより広大な領域をもつという程度の性格しかもたない潜在的意識的自己との関係においては経験的に結びつけられる現実性が与えられるのである。かかる観点にたってジェイムズは「宗教の中には超越的ないしは潜在的意識の領域と非常に緊密な関係をもつ人間本性の分野がある」
(7)と主張するのである。
 それでは「潜在意識的自己」がいかなる意味において媒介項でありうるのか。まず「潜在意識的自己」と「神的なもの」の両者ははじめから質的に異なった諸性質をもつものではない点があげられる。そこでは「潜在意識的自己」は「神的なもの」を含むより広範なものであると考えられるのである。従って「潜在意識的自己」は単に宗教に適用されるのみならず、人間の全生活にまたがって適用される人間的存在形態の一部なのである。宗教の側より説明すれば「潜在意識的自己」の内容が厳粛さをもつのは、まじめさをもつだけ、柔和さをもつだけ、その程度に応じて、それは宗教的色彩を帯びるという考え方である。潜在意識と宗教的意識は消極的な意味においては関係づけられているというよりも、積極的なそれにおいては全く同一の基盤にたっている、といえるのである。この主張は同時に「神」や「神的なもの」が全く人間的次元にたっていることの論証にもなっている。なぜならば「潜在意識的自己」そのものが人間的であるといわれる以上、「潜在意識的自己」に含まれる「神的なもの」も当然人間的でなければならないからである。
 次に「神的なもの」が単一の、あるいは特定の性質を意味しえないという主張もこの「潜在意識的自己」の分析によっても論証される。この時もジェイムズは「潜在意識的自己」が意識的自己よりも大きくなければならないということだけを要求する。その状態に対してジェイムズは「より大きなもの more」という名を与え、それが具体的に、宗教的生活を含むあらゆる人間的生活の中心をしめていると考えるのである。ただしこの「more」に対しては直接的には次にあるようにしかのべていない。「それが次のステップをふむに信頼するにたる大きさでありさえすれば、より大きなもの moreはどれでもよいだろう。それは無限である必要はない。唯一である必要もない。それはただ、より大きい、神のような自己であると考えられさえすればよいだろう。又その中の現在の自己とは、その際不完全な表現にすぎず、宇宙はそのような自己の、種々の程度の総括をもつ自己の、集合であり、宇宙の中には実在される絶対的統一はまったくないと考えられうるだろう。」
(8)
 この「more」の実体については植田清次氏が的確に指摘しているので、それを引用して論者の弁にかえよう。即ちこの言葉は「現象界以外の精神的世界、現在明白な意識のかなたにある過去的または未来的<推定的>な意識、顕在意識に対する潜在意識、などを総括的に示し……ており……すべてを包みすべてを越える『高大な存在』(大我)という意味をもっている」(二)のである。
 とはいえジェイムズの著『宗教的経験の諸相』の結論は「潜在意識的自己」の存在の科学性があきらかにされていることの実証ではなく、それの存在が意識的人格と連続しているという事実の表明なのである。ジェイムズは以下の仮説を提唱する。「宗教的経験において、われわれが結合していると感じるmoreとは、その彼岸では on its farther side なんであれ、その比岸では on its hither side われわれの意識的生活の潜在意識的連続である。」
(9)
 ここからわれわれはジェイムズの心にひそむ二つの意図を察知するのでなければならない。その一つは一般的に是認されている心理学的事実を出発点として、いわゆる「神学」において欠けている科学とのつながりを保とうとする意図、もう一つは宗教的人間が外的な力によって動かされているとする神学者の論点をも認めるという調停的な意図、である。先程の仮説の提唱に続いて、ジェイムズはその論証を行う。「なぜならば、客観的な外観を装って、自我に外部的支配のあることを示唆することは潜在意識的領域からの侵入の特徴のひとつであるからである。宗教的生活においてはその支配は『より高い』ものとして感ぜられている。しかしながら、われわれの仮説にたてば、根本的には、われわれ自身の隠された精神のより高い能力そのものが支配しつつあるのであるから、われわれを超越する力との結合の感じは、単に外観的にではなく、文字通り真実なあるものについての感じなのである。」
(10)かくて狭小な自己のmoreとの結合において宗教的経験の真理があきらかにされているのである。
 しかしながらここでジェイムズはmoreとの結合あるいは連続が真理であるということによって帰結する果実が実際的に、個人に実らなければ無意味である点にふれる。その果実とは他でもない、moreとの結合あるいは連続の自覚は、必然的に、自己のエネルギーを高め、自然の状態にあるときに感じるわれわれの不安を解消し、自己の有効な心理的物質的成果を産出しなければならない、ということである。具体的にジェイムズはその果実を次の如き「聖なる人間」の特徴にみる。
(一)この世の利己的なちっぽけな私利の生活よりも広い生活の中にある、という感じをもつこと、そして理想的な力の存在を単に知的にのみならず、いわば感覚的にも確信すること。
(二)理想的な力とわれわれ自身の生活との親密な連続性の感覚をもつこと、そしてその力の支配にすすんで自己放棄しようとする感じをもつこと。
(三)制限的自己の外部からとけていくに従って無限の高揚と自由をもつこと。
(四)情緒的中心が情のこもった調和的な愛情へと移ること。
 かかる四つの過程はわれわれのみてきた宗教的経験の意味、内容が、全体として、いかなる価値と積極的意義をもっているかについてのわれわれの「精神的判断」
(三)に対する解答である。かかる判断は「人生は生きるに値するか」なる倫理的な問いかけに対応するものであり、しかもそれがわれわれの常識においても判明されるのは宗教的経験が特定の対象でない証左である。
 それにしてもジェイムズに対するわれわれの懸念は「存在するものだけについて語る科学」について、あれほど否定的に考え、宗教について肯定的に考えようとする彼が宗教的経験の真理性をあきらかにするために、結局「科学的に」それをなそうとしていることである。ジェイムズの論理からいえば宗教的対象は科学的対象があきらかにしつくされた後の厖大な残滓でなければならなかった。そうであるからこそ、宗教的対象がなおかつわれわれの対象であるために「信ずる意志」の作用を必要としたのである。「信ずる意志」の表明は、いわば、宗教的対象が科学的なそれでありえないことの証しであった。
 しかるに宗教的対象がプラグマティックな方法に従ってわれわれの対象となるや、ジェイムズによって、それは科学的対象として考察されているのである。それでは宗教的対象は、もともと、科学的対象外の厖大な残滓ではなく、科学的対象そのものであったのか、はたまた科学的対象と宗教的対象とを一応便宜的に区別してみたものの、後者を前者として把握したいとするジェイムズの切望aspirationのあらわれであったのか。
 かかる質問に対し適当な解答は与えられないのではないか。なぜならばそれは「信ずる意志」をめぐっての論争が終わらない限り、永遠の謎だからである。もっとも、言葉上の解決であるならば、科学的対象も宗教的対象もジェイムズにとっては同じ人間的対象であるから、両者の異質性が強調されること自体おかしいと考えられないでもない。人間的対象であるとは経験的対象であるの意である。従ってそれはプラグマティズムの事物のとりあつかい方に従いうるものであり、生活の効用的価値から、同じ実際的結果をもつ人間的対象である。だがそれ自体すでに科学的な事物のとりあつかい方であり、科学的真理の域をこえるものではない。問題なのはジェイムズの思想の原点にあるところの「存在しないところの対象」もそれが個人によって要望されれば、十分に人間的対象となりうることがいかにして可能であるか、なのである。
 ここでまたもや「信ずる意志」が論じられるのは無駄であるかもしれない。しかしジョサイア・ロイスのいう如く実に『信ずる意志』の中にジェイムズの思想の鍵が隠されている
(四)のであるから、この問題の違った視点からの論述はむしろ重要であろう。しかも、ジェイムズの宗教思想においてこそ「信ずる意志」の存在意義が公認せられるといってもよいと判断せられるのではなかろうか。
 スミスによれば「より広く知られ、且つより一般的に誤解されている」
(五)この信ずる意志の概念はジェイムズにとって不可欠な存在であった。それはジェイムズの二つの哲学的態度に基づいている。一つはあくまでも経験の立場に徹しきること、二つは同時に人間の能動性、自発性、いいかえれば自由を認めること、である。両者は実は同じことを意味している。経験に徹するとは経験を与えられるの意でない。逆に可能的経験をなんらのアプリオリな力によらず経験それ自体によって現実的経験にするの意味を含んでいる。その根拠も又経験の中にあるのであり、具体的に「信ずる意志」の作用として機能する。さらに人間の自由とは、ここでは(主観的には)適者生存の自然的生物学的法則に従う受動的存在としての人間を拒否することであるといってもよい。たしかに外界の事実を確認するのは心的活動の一つであるが、人間にはさらにそれ以上の心的活動が多元的にあることを認めなければならないとジェイムズは考えている。それが生存する人間の固有のあり方であり、又それを考えることは生の権利としてあることを認めなければならないのである。
 そのために「信ずる意志」がいわば人間の生の証しとしてなければならなかった。生を与えられたものの権利はその欲求をもつものとして、いかに論理的に反証をあげられても、あるのは事実であり、それは決して無視されてはならない。それ故生をもつものの欲求の対象はそれが欲求される限りは、たとえそれが何であれ、存在しうるのであり、又存在させようとする努力がなされる限りは存在しなければならないのである。その限りにおいて人間とはいかなるものも可能とする権利をもつ存在といわれなければならない。従って「存在しないところの対象」も人間によって求められる限りは、生の権利として実在化され、経験せられる性質のものでなければならないのである。
 以上がジェイムズの宗教観を支える考え方である。ジェイムズはそれによっていかなる宗教論を展開しようとしていたのか。E・C・ムーアはそれを次のように見事に代弁している。「ジェイムズは神が存在するということ、あるいは宗教が真であるということを証明しようと試みたのではない。彼はただ神が存在することを信じる権利、又あたかも宗教が真であるかのように行為する権利をわれわれがもっているということを証明しようと試みているのみである。」
(六)
 心理学者でもあるジェイムズは科学のために宗教を犠牲にしえなかった。しかもその科学は存在するもののことのみを語っている点でジェイムズのもつ他の心的活動を満足させなかった。同時に哲学者であるジェイムズは宗教のために科学を犠牲にするほど、独断的でもなかった。宗教的態度も一つの人間的態度にすぎなかった。ここにわれわれの要求としての宗教、そして人間的事実としての宗教の存在の具体的姿が見られる。
 このように考えてみた場合、宗教的経験の客観性を認めさせるに際し、ジェイムズがもちだしてくるところの「潜在意識」の考えは必ずしも適切であるとはいえないかもしれない。たしかにジェイムズのいうように「宗教においてはわれわれは超意識的なあるいは識閾下の領域と異常に密接な関係をもっている」といわれうるかもしれないが、それは客観的事実であるということにはならないのである。第一に「潜在意識」なるものが、当時のジェイムズの生きた時代にあって、はたして、客観性をもちえたのであろうか。(厳密には今日においてもそれについて決定的な見解はない。)ジェイムズが潜在意識、即ち識閾下の領域を心理学者によって認められる場所であると判断したのは次の観点からである。「可感的経験の跡が蓄積され、それが普通の心理学的あるいは論理学的法則に従っており、最後に爆発のようななにかをともなって意識に入ってくる『緊張』をえる。従ってあらゆる他の説明のつかない、侵入的意識の変化を爆発点に達した 識閾下の記憶の緊張の結果として解釈するのは『科学的』である。」
(11)
 この主張でもあきらかな如く、ジェイムズは潜在意識について積極的な意味づけをしていない。それは単なる「なにか」があるという事実の叙述でしかないのであり、そのことはすでに認容されている説明の諸原理を使うという方法をとり、その方法の科学性を認めるものであったとしても、潜在意識それ自身が客観的なものであるということにはならないであろう。従ってジェイムズが使う潜在意識とは意識されざる部分の総称にすぎず、消極的な定義でしかなく、言葉上の問題からいえば「存在しないところの対象」「神的なもの」あるいはジェイムズにいわせれば個人的宗教的経験の根拠であるところの「意識の神秘的状態」(12)の単なる別の表現にすぎないともいわれうるだろう。
 だが字義上の詮索を別にすれば、ジェイムズのこの潜在意識説は一つの仮説としては有効的に働くといわれねばならない。なぜならばある人がいうようにこの「潜在意識説は科学的に立証せられたといふよりも寧ろ天才の直観である」
(七)からである。それ故にこの潜在意識説をもってわれわれは潜在意識を科学的実体として考えるのは早計であるかもしれないが、まさにジェイムズのいうところの宗教的経験の事実を説明するに必要な仮説として承認しなければならないのかもしれない。
 ジェイムズ自身もこの潜在意識説の限界を十分に知っていた。それ故にジェイムズはこの潜在意識説を宗教学にとっての戸口であると考える。この戸口は宗教の問題にわれわれが関わりやすくしているだけである。なぜならばこの戸口としての潜在意識説が結論であったとしても、宗教とは依然としてこの説が解決しえぬものを包摂していると考えられるからである。戸口は戸口にすぎないのであって、「われわれがこの戸口に入りこむや否や、又そのむこう側をさらに追っていけば、われわれの超限界的意識はわれわれをどこまで導いてゆくのかと尋ねるや否や、ただちに様々な困難があらわれてくる」
(13)のである。いいかえればここに潜在意識説がいかに科学的原理に基づいているといわれようが、それをさらに否定するところの、さらに不可知の、対象の存在にわれわれは遭遇せねばならないのである。そしてこの時人間の信念は、「超・信念over-belief」となってこれら対象との関わりをもとうとする、とジェイムズは考える。
 それではなぜにジェイムズが「信念」にかわるに「超・信念」なる概念を使うのであるか。この疑問が宗教的経験の形而上学的客観性を求めるジェイムズを理解する一助になるだろう。なぜならば信念の場合はそれはあくまでも科学的対象にのみあてはまるともうけとめられる危険性があるからであり、従って、宗教における信念、即ち信仰も、C・W・ミルズがいうように、その「知覚的確証を厳しく追及する『知的リゴリズム』」
(八)のもとに理解される危険性があるからである。なるほどジェイムズにおいては、彼が知覚の哲学に徹するという限りにおいては信仰といえども知覚の問題として考察される必要はあるかもしれない。しかし人間の精神に「超・信念」の作用が働くというのをジェイムズが認めているのは、潜在意識的自己によっても尚且つ把握されえぬものとしての世界の存在と神的なものの存在を、われわれの生の問題の観点からとらえなおしうる可能性をみる証しであるだろう。いわばそれによってジェイムズは「知覚的確証から道徳的証明」への推移によって、宗教的経験の形而上学的客観性をあきらかにしようとするのである。それは主知主義的な態度を全く放棄するものでなければならない。と同時にわれわれの意志の働きが不可知、不可測の世界に対しても十分に認められているのであり、そしてこの道徳的見地からみれば、かかる世界はわれわれの経験そのものとして実在化されるのである。
 従ってジェイムズにおける「超・信念」と「信念」は本質的には同じ働きをなすところのそして構造的にも、一つの人間的精神の中にある同じ機能であり、ただそれらの直接的な対象が違うという意味で言葉上区分されているにすぎない。即ち後者は科学的対象(潜在意識が対象とするものを含めて)であり、前者は本節で問題になっているところの宗教的対象あるいは形而上学的対象といわれるものである。ここにおいてわれわれは前節において、事物は欲求されて存在する、というあのジェイムズの奇異なる命題の内容をみる。そしてこの場合ジェイムズの考えの根底にあるものは、あくまでも生の、あるいは道徳の問題であり、道徳的有用性が一切の対象の存在の根拠になっているのである。いいかえれば宗教的対象ないしは形而上学的対象は道徳的有用性の観点から照射をうけることによって、はじめてその客観性を保証されるのである。
 ジェイムズのこの道徳的有用性はある意味では彼の物の考え方のすべてを支配している。道徳的有用性の最も原始的な形とは例のジェイムズのプラグマティズムの「実際的結果」といわれる二つの事例、即ち「概念を信奉することによってもたらされる結果」及び「概念自身の与える感情への訴え」に端的にみられる。いいかえればかかる実際的結果によって人間の生活が一つの道徳的行為をうみだすならば、それは道徳的有用性の具体的姿であるといわれうるのである。従って宗教的対象ないしは形而上学的対象も(プラグマティズムの守則のように概念ないしは観念といった明確な形をとらない場合であっても)それによって一つの人間の行動が導出されうると考えているのであり、その特徴が多分に情緒的なものであるにしても、経験的事実として規定されるになんら矛盾はないのである。
 この考え方はのジェイムズの思索的遍歴の中の特徴をみる中で、より確かなものとして、宗教的経験の客観性をうきぼりにするであろう。周知の如く、ジェイムズは心理学(科学)から哲学へとその関心をかえた人間である。その過程についてはすでに本論の冒頭に詳細に述べられてあるので、ここでは省略するが、宗教的関心がその中間期に位置しているというのは注目されるべきであろう。勿論ハードウィックの言をまつまでもなく、ジェイムズにとって宗教は彼のパーソナリティそのままであるわけだが、彼の思想の流れからみて宗教的心理学、科学から哲学、形而上学への橋渡しの役をはたしているとみられないでもないのである。
 これは何を意味するのであるか。ジェイムズのいうようにわれわれの経験論的態度とは常に具体から抽象へと進む。この推移はジェイムズの関心が心理学、科学から哲学、形而上学へと移行した事実と決して無関係ではない。なぜならばジェイムズは経験論的立場を固持しつつ抽象的存在を哲学しようと考えているともいえるからである。その哲学的思考が例のプラグマティズムに則る態度に一貫しているとするならば、全く抽象的存在と考えられるもの、即ち哲学的対象、形而上学的対象においても、ジェイムズは道徳的有用性の観点から(従って経験論的にも)それの存在の可能性をみきわめうると判断するのである。してみれば、宗教的対象の如くわれわれ自身との直接の関わりを骨子とする対象の場合には、そしてジェイムズのように人格と密接に関係のある個人的体験的な宗教的対象の場合には、彼のいうところの実際的結果はより強烈な形で、われわれに影響を与えているといわれるのではなかろうか。
 だがこのような見方はジェイムズの思考パターンに逆行する第三者的なそれにすぎない。なぜならばジェイムズは宗教的対象をわれわれに内在的なものとしてとらえ、それ故に具体的特殊的に現象する事実としてとらえる経験論的立場を徹底しているのに対し、この見方は哲学的対象及び形而上学的対象というジェイムズにとっての可能的対象をあたかも存在する抽象的実体であるかのように考えているからである。哲学的対象ないしは形而上学的対象が抽象的対象であり、宗教的対象がそれよりも具体的な対象であるときめつける根拠は何もない。道徳的有用性の観点からいえば、それらが何であるかによって抽象的なのかそれとも具体的なのかがきめられるのではなく、それらがどの程度にわれわれの感情に訴えかけているのか、又われわれがそれをどこまで信じようとしているのかによって、ただ便宜的に区分されているにすぎないからである。
 とはいえわれわれはジェイムズの思想をもう少し客観的にみつめるためにも、かかる見地も必要とせねばならないだろう。そこでは哲学的対象及び形而上学的対象といわれるものが経験論的に考察される可能性がありや否やの問題に関係しているからである。しかもこの問題は根本的経験論の「一般的結論」といわれる彼の主張及び前々説の最後に論述されているプラグマティズムの形而上学的な実在感とも密接に関係している。
 ジェイムズによって想定されている形而上学的な対象とはその特性が抽象的な定義によって説明されるところの、そしてわれわれの精神と対置されてあるところの実体ではない。それは「直接に知覚される宇宙はなんらの外的超経験的連続物を必要としないでも、それ自身、連絡、連続する構造をもっている」という根本的経験論の結論の一つの証左として示されているものであり、あくまでも経験的事実の範囲内に存在すべく留められている。
 この考えはジェイムズの「超自然主義思想」といわれるべき一つの具体例であり、かかる思想の中味として形而上学的対象といわれるべきものの考察がなされるのである。ジェイムズのこの超自然主義は、早生した無名のすぐれた日本の哲学者の言によれば「いわゆる理想的世界と現実的世界との機能的没交渉を説く『醇化した超自然主義 Refined supernaturalism』或いは『宇宙論的超自然主義 Universalistic supernaturalism』、即ちプラトンに発しカントに復活し、延いて一般に唯理論的超越的形而上学の体系中に貫通せる超自然主義ではなくて、奇跡と摂理とを信じ現実的世界に及ぼす理想的世界の影響を承認するところの『より粗笨なcrasser』或いは『断面的なpiecemeal』超自然主義……であった」
(九)のである。
 そのためにはジェイムズにとっては経験がすべてでなければならなかった。又その経験が唯一の実在でなければならなかった。形而上学的対象の実在性はそれがわれわれの経験的対象であるということによって保証されている。経験的対象であるということはわれわれの意志の作用のもとにわれわれとともにあるということであるが、対象の側よりみればその対象がなんらかの形で、われわれの感情にある効果を与えているということである。従って形而上学的対象もなんらかの現実的な効果をわれわれに対して与えているから、実在的であるといわれなければならないのである。
 その観点からみれば形而上学的対象がありや否やでなくて、それがわれわれに対するどのような関わり、機能性をもっているかが問題なのである。ここで形而上学的対象の具体例を挙げるならば、われわれは従来「神的なもの」といってぼかしてきた「神」をあげてもよいだろう。又、世界の有限性、無限性、霊魂の問題等をあげてもよい。それらはいかにしてわれわれの感情に入りこむのか。それらの考えはあらかじめ明確な姿をしていないからといって、否定されているのではない。ジェイムズが「現実的な効果をうみだすが故に現実的である」と判断するそれらの考えについての根拠は存在の論理性にうらうちされたものではない。それはまさしく「信ずる意志」にうらうちされたわれわれの人格、気質、思考のすべてのあらわれとしてのビジョンに基づいているのである。
 その精神過程は以下の如く展開される。それが事物をとりあつかう決め手となる「実際的結果」の意味する、内実なのである。
(一)まずわれわれの中にそれらについてのある考えが生ずるとする。これは真実のものであるのか、とわれわれは問う。
(二)それはどこかで真実のものかもしれないとわれわれはいう。なぜならそれは自己矛盾的でないからである。
(三)現在、ここにおいても、それは真実かもしれない、とわれわれはつづける。
(四)それは真実であるのに適している、それが真実ならよい、それは真実であるべきである、とわれわれは今や感じる。
(五)それは真実であるにちがいない、とつづいて何かがわれわれの中でささやく、そしてそれから最終的結果として
(六)それは真実だとされるべきである、とわれわれは決定する。それはわれわれにとっては、あたかも真実であるかの如くあるべきである
(七)そしてわれわれがこのようにふるまっていくことは、ある特別な場合には、この考えを、最終的には、確実に真実なものとするための手段であるかもしれない。(14)
 この過程は、いかなる段階においても、ジェイムズのいうように「論理的ではない。」この過程を担うのは生であり、「結論がそこにえられた後に、理論理性がその根拠をみいだす実践理性である」
(15)のである。形而上学的対象は、それがわれわれの経験的対象であり、従って生のあるいは道徳の基準に則る限りにおいて、かかる精神過程の経過によって信奉され、又それが故に欲求せられて存在しているのである。
 このジェイムズの形而上学的対象に対するものの見方は宗教的経験における神秘な対象を実在化たらしめる根拠を与えるであろう。そして、かの潜在意識的自己さえも把握しえぬ、知性の判断をこえる対象への関わりを可能ならしめているのである。とはいえ究極的には宗教的経験の価値の客観性は知的に保証されないという了解事項のもとに保証されているのであり、従って価値の客観性というよりは価値の創造に向かう人間の普遍的態度があきらかにされているにすぎないのである。
 だがわれわれがあくまでもジェイムズの立場にたとうとするのなら、それ以上の詮索はかえってわれわれを主知主義の世界へひき戻す危険性をもつだろう。そうなれば元の木阿弥であり、せっかくジェイムズが宗教的経験における、生の高揚を指摘した努力が水泡に帰すであろう。ジェイムズの神観においても然り。われわれはジェイムズの次の言明を了承するだけで十分であろう。「神でない私の精神と意志がいかにして神を認識し、神に出会おうと飛翔しえるのか、いかにして私は神からそんなに離れるようになるのか、そしていかにして神自身がともかく存在するようになるのかは、有神論者にとって永遠に解かれない、そして解きえない問題である。有神論者にとって彼自身が単に存在し、神を必要としていることを知り、そしてこの宇宙の背後に神があり、且つ永久にあるであろうし、又ある方法において、自分の呼びかけを聞いてくれると知ることで十分である。」
(16)
 従ってジェイムズにおいて神の確証は元来、内的人格的経験にあるのであり、神があるかないかはただ単にわれわれにとって可能性が開かれているかどうかの問題に帰着し、それ故に約束promiseの有無に還元せられる。宗教はあくまでも生の次元の問題として、そして道徳の問題としてとらえられなければならないのである。 

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